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王国のコラム

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こだわり人[2015.06.12]

モノづくりの町の、モノづくり博士

 『工場まちの探検ガイド』。今から21年前、大田区立郷土博物館の特別展示会でいただいた100ページの小冊子である。今も大事にとってあるのだが、その冒頭に"大田区は工業区である。工場数は7860社、東京都内23区の第一位です"と記されている。その大田区の工場が現在では4000社を割っているというのだから、バブル経済崩壊後のこの街の停滞はわかるというものだ。だが、蓄積された技術や技能は絶えることもなく、数は減ったが工場数トップは維持されている。
 そんな中で私は、ものづくり大田区に関する様々な図書を読んできたが、下丸子にある試作品やプロトタイプを作る 安久工機という会社が気になって仕方がなかった。というのは、『どっこい大田の工匠たち(現代新書)』『メイドイン大田区(サイビズ)』『日本のモノづくりイノベーション(日刊工業新聞社)』といった一般書に加え、ムックの『東京の町工場(雷鳥社)』『日本の町工場(双葉社)』。さらには漫画の『シブすぎる技術の男泣き(中外出版)』といったものもある。創業は1969年(昭和44年)で、従業員6名。まさに大田区の町工場を象徴する企業としてクローズアップされている。
 ということで今回は、安久工機の2代目社長、田中 隆氏に着目。失礼ながら同氏のこだわり人生を追うという視点で、その足跡を紹介させてください。

 

 

こだわり人 ファイル039

モノづくりの町の、モノづくり博士

有限会社安久工機 (やすひさこうき)田中 隆氏(東京都・大田区)

●幼少のころからモノづくりに芽生える

 東急多摩川線の武蔵新田駅から歩いて15分。一目で町工場と思われる建物が次から次へと目に飛び込んでくる。下丸子は大田区を代表する機械金属加工の町ということを耳にしていたが、通りを行き交う職人さんや工員さんの姿や車の流れにはっきりとそれを見て取れるというものだ。

 

 田中氏の父の文夫氏が医療機器や精密機器の試作品やプロトタイプを作る工場として事業を開始されたのは1969年(昭和44年)である。以来この地でということだから、バブル経済前の元気な頃からこの町と共に歴史を刻んでこられたのだろう。田中氏がそんな父の姿を見ていて、いずれ自分もこの世界で作る仕事に携わりたいと思われたのは当然のことかも知れない。
 それを裏付けるように大学は東京農工大学大学院・工学研究科(機械工学)に進まれたのである。すると父は、大学を出ると当然のごとく家業を継いでくれるものと思ったそうだが、田中氏は、「将来、家業を継ぐにしても、数年は他人の飯を食って勉強する」という強い意志だ。東京を離れ、大阪・吹田の国立循環器病センター研究所人工臓器部に研修生として配属されるのである。
 「ある面では武者修行ですよ。研究所には父もお世話になっていた梅津光生という先生がおられ、研修生として人工心臓の製作や性能試験回路の設計に取り組ませていただきました。時代の波が医療機器の進歩・発展を促していましたので、毎日が新しさとの出会いで、毎日がワクワクしていましたね」

 

 研究所に勤めて丸4年。「よし、ここで一区切りをつけようと」ということで、31才の時に研究所を退職し、父の安久工機に入社されるのである。親の事業を子が引き継ぐという日本的な家族経営が当たり前の時代だ。田中氏は全く迷いもなく、「よしこれからは、父とやろう」ということである。開発者として、機械設計士として、組立工として時代の先の先を追いかけて行かれるのである。
 特に、医療機器については父が早稲田大学や東京女子医科大学との産学連携に取り組んでおられたので、自らもそこに積極的に首を突っ込み、ハイレベルな技術を追いかけることに想いを託されていくのである。そして1994年(平成6年)、一つの到達点として辿りつかれたのが、人工心臓の開発に欠かせない『人工心臓の血液環境シミュレータ』という試作品の完成である。
 人工心臓に、シミュレーター。もう言葉だけでも、時代の最先端の技術を想起させるではないか。何か、未来がいっぱい詰まった感じがするではないか。
 「一口に試作品と言っても、医療機器は人の命に係わるものです。そのため、性能、機能、仕上がり、すべてが満点でなければなりません。人工心臓はポンプの中に膜があり、空気圧で血液を送り出す仕組みになっています。血栓ができると、脳梗塞や腎不全を引き起こすので血液がスムースに流れなければなりません。そのため、素材選びは重要で、パーツの接続部分のコーディングなどには細心の注意を払う必要がありますね」
 確かにそうだ。生命にかかわる重要なテーマだ。依頼主がいくら医師や学者と言え妥協は許されない。安心、安全がすべてだ。「常に対等の立場で向かい合いましたからね」という田中氏の医療機器、いや生命機器へのこだわりは想像してあまりある。そのこだわりはさらに加速され、2002年(平成14年)には、『経済産業省が選ぶ世界レベルのベンチャー企業7社』に選出されている。"人工心臓づくりに安久工機あり"という存在感は、まさにここにありだ。

 

●試作品づくりの技術が飛び火して、オリジナル製品を生む

 ところで、興味があるのは医療機器や精密機器の試作品やプロトタイプで培われた技術の大きな飛び火である。技術の応用力と言ってもいいだろう。安久工機独自の二つのブランド製品を生み出されるのである。このことについて田中氏は「一つの技術を極めることも大事だが、そこで培った技術を転化し、応用していく技術も大切ですね」と言われるのだが、その応用技術から生まれた二つの製品を紹介していただこう。
 一つは、『カラーコーン<パタコーン>』という製品である。 「これは私の弟が中心になって進めてきた開発製品です。工事現場などで使われる カラーコーンを、その名の通りパタンと折り畳めるようにした製品です。取引会社の方との雑談中に"従来の円錐型のコーンでは車などで移動するときにかさばり、もっと コンパクトにならないか"の話を聞いたので、よしチャレンジしてみようということですよ。三角錐型でスプリングによって簡単に開閉できるものを開発したんです」
 パタンと折りたためるから製品名も『パタコーン』なんてユーモアもある。それが大ヒットし、1997年(平成9年)には『警察装備資機材開発改善コンクール』で警察庁長官官房長賞に輝かれたのだから、まさに応用力のなせる業だ。販売数は累計で4万本を越えている。

 

 もう一つは、『ラピコ』という視覚障害者のための『触図筆ペン』である。これはインクの代わりに蜜蝋を使い、ヒーターで溶かして、蜜蝋で線や絵を描ける仕組みになっている。描くと10〜20秒で蝋が固まり、盛り上がった部分を指でなぞることによって書いたものが認識でき、書き損じてもヘラで削れば簡単に修正できるという感動製品だ。

 

 「2004年(平成16年)のことです。香川県の盲学校の美術の先生が生徒にためにということで、蜜蝋のアイデアを考えられたのですが、それを実際に商品化するところがない。このことが人伝いに私どものところに伝わってきたので、またまたチャレンジですよ。ペン先を針金などでやってみたのですが書くと曲がってしまうし、蜜蝋もペン先からぼたぼた落ちて絵などとても描けなかったんです。そして試行錯誤を繰り返して3年です。ペン先に形状記憶合金を使い、軸にバルブを仕込み、ペン先を押すと蝋が出る『触図筆ペン』を完成させたんです」
 2007年(平成19年)、ようやく満足できるものを完成させたと言われるから、その粘り腰には改めて教えられる。田中氏が試作第一号機のペンを持って香川県の盲学校を訪ねる様子がTBSテレビの『夢の扉』でも放送されたが、全盲の中学生に「こういう筆を作ってくれる会社があるなんて、うれしいです」と言われた時は改めてジーンときて、"モノづくりは、心づくりだ"ということを実感したそうである。
 この『触図筆ペン』は翌2008年(平成20年)に『大田区中小企業新製品・新技術コンクール』の特別賞に輝くと共に『大田の工匠100人』に選出されているから、まさにモノづくり人冥利に尽きるということだろう。
 その後も『触図筆ペン』は改良に改良が重ねられ、厚生労働省の障害者自立支援機器等開発促進支援事業の一環として子供でも使いやすい製品となり、盲学校の生徒が描く作品展の開催などにもつながったというのだから、まさにモノづくりは心づくりだ。2014年(平成24年)にはその社会的な貢献に対し、東京都から『福祉のまちづくり功労者』として表彰されている。

 

●町のエジソンのこだわりは、止まらない

 田中氏のこだわりは止まらない。それを象徴するのが2005年(平成17年)、50歳の時の早稲田大学理工学部への入学である。もうこれだけでもこだわりが見て取れるではないか。試作品などの制作に携わる傍らで大学へ。6年後の2011年(平成23年)、工学博士の学位をとって卒業されるのである。
 「その間、2005年(平成17年)12月に父が亡くなったので社長を引き継ぎましたから、卒業するまでは学生社長ですよ。青春を2度味わったんですから贅沢ですよね」と言われるのも田中氏らしいではないか。ある面では痛快な人生だ。
 「おかげさまで私の子供のような学生たちと学びましたよ。残念だったのは3.11の東日本大震災の影響で春の学位授与式が中止になったことです。でも、大学側の配慮で秋に授与式が行われたんですが、かみさんと娘が来てくれました」 何かドラマテイックではないか。お心察して余りある。嬉しくもあり、無念さもある。でも、家族が祝福してくれたという。見せていただいた学位論文の謝辞の最後に、家族への感謝の言葉として、非常に印象的な言葉が綴られていたので、そのまま掲載させてください。

 

 これが人生かと思うと、人間、田中氏に改めて拍手を送りたくなるというものだ。

 止まらない田中氏のこだわり人生だ。2012年(平成24年)には尾崎重之心臓外科教授(東邦大学医療センター)の依頼で『大動脈弁形成術のための弁先寸法測定用具』を開発し、『大田区中小企業新製品・新技術コンクール』の優秀賞を受賞されている。
 さらにこの年には、東京女子医科大学、岩手医科大学、医療機器メーカーのアスター電機の協同事業として『異種生体情報を統合表示する術中言語機能モニタリングシステム』を実用化し、2014年(平成26年)には、長年の試作品などの開発、設計、組立といった事業に対して、経済産業省から『がんばる中小企業・小規模事業者300社』に選出されている。

 

 

 ここで田中氏に、従業員が6名の町工場で、どうして多くの大学や医療機関から称賛される製品を生み出すことができるんですかとちょっと失礼なことを伺ってみた。すると、田中氏は言われたのである。
 「そこが町工場の多い大田区のいいところですね。この町には自転車で一回りすればたいていの仕事ができるほど多様な技術を持った工場があるんです。自転車ネットワークなんて呼ばれていますが、私のところは設計をしたら、部品加工はそのネットワークを最大限利用して行い、コーディネート企業の役割を果たしているんです。自分たちの技術だけでなく、地域に蓄えられた技術や技能を生かすことですよ。ですから、企業の規模ではないんです。仲間がいることなんです。それによって、地域全体の活性化にもつながっていくでしょ」
 そして言葉を付け加えられたのである。「大田区で仕事ができることに感謝です」と。そんな地域への思いが広がって、社会人はもとより大学から小学生まで受け入れ、モノづくりの技術指導や体験教室やワークショップなどを積極的に実施されている。地元の小学校で使われる教科書『新しい社会5・下(東京書籍)」にも田中氏が紹介されているのだが、そこには"みんなの得意な技術をもちよると、とても高い品質のものをつくることができます。このことを『仲間まわし』と呼んでいます"というコメントが添えられている。
 まさに、田中氏ならではのこだわりコメントだ。

 私はかって町工場のモノづくり人を集めた「町のエジソン展」という展示会を企画したことがあるが、田中氏のモノづくりへのこだわりに改めて町のエジソンを見た思いだ。大田区のエジソンここにありだ。
 「企業の大小なんてことはどうでもいいんです。大事なことは夢見る力ですね。町工場には定年なんかありません、一生もんですからね」

 


文 : 坂口 利彦 氏