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王国のコラム

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こだわり人[2015.11.06]

"縁台美術"へのあくなきこだわり

 “芸術の秋”という言葉にどうもなじめない。芸術なんて季節にはまったく関係ないではないか。年がら年中のものだからである。それでも、9月から12月の初めにかけて美術館などに我が足が向くのは、頭の中に"芸術イコール秋"のアンテナが埋め込まれているのだろうと、勝手な思いを抱きながら東京・江東区の『東京都現代美術館』(大江戸線・半蔵門線 清澄白河駅)に足を向けた。


 すると、あいも変わらない雰囲気で現代美術のフレッシュな息づかいに堪能させられると、今日はこのまま帰るのはもったいない。この深川界隈を少し散策していこうと、昔懐かしい雰囲気の商店街に出ると、通り沿いの所々に置かれた手づくりの個性的な案山子が懐かしさに追い打ちだ。そうか、これが江東区の名物の一つである『かかしコンクール』の一端かと思ってカメラを向けると、学校帰りの子供たちが案山子と同じポーズをとって笑い転げてくる。何だろう、この空気感は。時間がゆっくりと流れ、この街ならではのこだわりを見るようだ。

 「よし、このままこのこだわりの街を永らえてほしいなぁ」なんて思いながら商店街の脇の道に入ると、『藝 深川美術』と書かれた木札のかかるエンジ色の2階建てが目に入ったのである。思わず、うなったね。というのはいまから8年前にある雑誌で “『縁台美術』を合い言葉に、縁台のある風景を”“深川から全国へ発信する『藝 深川美術』の代表、荒野真司さん”という紹介記事を見ていたからである。そうか、ここが荒野さんのアトリエか。
ということで、今回のこだわり人は東京・江東区の荒野真司さんに着目させていただいた。

こだわり人 ファイル043

“縁台美術”へのあくなきこだわり

藝 深川美術(東京都・江東区)

 

●木の文化を次代へつなぐ

 いつもの遠慮のない性格だ。入口を入ると床に置かれたイーゼルの前で、高校生や中年の方が思い思いのデッサン画を描いている。壁周りにはデッサンのための花などのモチーフ材や生徒が描いた作品が飾られている。そして、その奥には手づくりの工作物や工作道具が見え隠れ。ある面では雑然としているが、格式ばって近寄りがたい雰囲気でなく、素朴で親しみやすいホッとした空気を作り出している。まさに「どうぞ、自由にやりなさい」という感じで、この空間に対する荒野さんのこだわりがどんどん我が身に入り込んでくる。

 「とりあえず、2階へ行きましょう」と言って2階のアトリエに案内されると、またまた荒野流ともいうべきこだわりか、いい感じだ。後で聞くと天井や壁や床はすべて木で、自分の手で仕上げたそうだが、木に対する愛着が並々ならぬことが見て取れる。そして「机や椅子や調度品などもすべて木で、私の手づくりですよ」と言われると、木材に対する関心が高い我が心の琴線は揺り動かされるばかりだ。木の独特の手触り感や香りに我が身体は完全にハモッている。

 「この深川の先は全国の材木が集まった"木場"です。いまは"新木場"の名もとに、材木商や職人さんが頑張っていますが、この周辺はまさに木の街です。ボクはこの木の文化を絶やすことなく受け継いで、次代へつなげていきたいんです。"縁台美術"と言うのはその一貫で、全国の街に縁台のある風景を出したいんですよ」

 なるほど、荒野さんの想いは雑誌で読んではいたが、顔を見ながら向かい合っていると、荒野さんのこだわりが一段と身近にわが身に入り込んでくる。
「あの雑誌の記事でも言いましたが、この先の『東京都現代美術館』が誕生したのは1995年で、私が"縁台美術"の活動を開始した時と同じなんですよ。だから、向こうが"現代美術"と言うなら、こちらは"縁台美術"と言うことですよ、いまもこの思いはまったく変っていませんからね」
と元気だ。

●縁台から始まるご近所コミュニティ

 なぜ縁台なんだろう。すると荒野さんはこちらの思いを察して言われたのである。
「工務店の幼馴染が廃材で縁台を作って、家の前に置いたんです。すると、そこに近所の人が集まってきて話をしたり、おやつや弁当を食べたりしている。夕方になると、将棋をしたり花火を楽しんだり、星空を見たりしている。すると、他の人がやってきて声をかけたりして話が広がっていく。そこに会話があるんですね。街の風景ができるんですね。これは面白い。縁台の役割はすごい。縁台をもっと作ってやろうということですよ」
 まさに縁台から始まるご近所コミュニティだ。ひきこもり、近所付き合いの乏しい現代社会にあって、縁台の役割に改めて教えられる。その結果だろう、地元深川から始まった縁台のある風景は各地の自治体に受け入れられていったそうである。

 縁台の展示イベント、縁台の手づくりワークショップなど、その数は1000を超え、遠くバルセロナなど海外にも受け入れられていったというから、たかが縁台ではない、されど縁台だ。その業績が高く評価され、1998年の12月号、雑誌『AERA](朝日新聞社発行)において『21世紀の30代、40代』の一人に選出されておられる。
縁台から生まれた街の風景。その雰囲気は言葉よりも写真でご覧いただいた方がより身近に見えてくるだろう。以下に写真を掲載しておきます。

出典 Google+「縁台美術資料」
https://plus.google.com/photos/108735207771088933943/albums

 「国際的なサミットなども円卓テーブルを囲ってなんていうより、縁台に座ってなんてやると、もっと話が弾みますよ」と夢は大きい。

●絵のある生活を応援する深川っ子

 縁台美術に対する熱い想い。木に対する熱い想い。荒野さんのこだわりが言葉にも仕草にもはっきりと見て取れる。HPを拝見すると、1967年、江東区生まれの江東区育ち、地元の人と記されている。だが、現代に至る道のりは波乱万丈に飛んでいると記されているので、その足取りを簡単に紹介させていただこう。

 学校を出ると、木場の海の先の外国を見たいとのことで、21歳の時にオーストリアのウィーン応用美術大学へ行き、人体の平面絵画を学ばれた。帰国後は舞台美術から始まって服飾デザイン、ミュージシャン、格闘家、バリ舞踊家、各種アトリエ主宰と自由奔放。1994年には『君が元気でやってくれると嬉しい』、2000年には『楽園』という映画にも主演で出ておられる。「まあ、いろんなことをやってきました。じっとしていられないんですね」と江戸・深川っ子の心意気、ここにありと豪快だ。

 「現在は『藝 深川美術』の名のもとに、縁台のある街の風景の制作を始め、オーダー家具の制作、アパレルショップの什器制作、カフェや美容店の内装、テレビ番組のスタジオセット、肖像画制作...などなど。仲間たちと好きなことをやっていますが、特にここに来て力を入れているのは絵画教室と造型教室です。
 絵のプロの世界で生きたい人、アマチュアで絵の好きな人。幼児からお年寄りまで、すべての世代の人を受け入れて、もっと絵心を持っていただきたい、もっと絵のある生活を楽しんでいただきたいということですよ。このアトリエのドアはいつも開けっ放しですよ」
 ちなみに教室のプログラムを見せていただいたので紹介しておくと、一般クラス、受験クラス、中学生・高校生クラス、小学校クラス、フレックスタイムクラス、さらには課外教室や出張教室と多彩だ。

●木を通して人の心を追いかける

 木に対する熱い想いの深川っ子。荒野さんはその想いを『えこっくる江東=環境学習館』に載せておられるので、そのコメントを転載させていただこう。

木を使うことは?
手入れを学ぶことです。生活の中に木を使うと便利じゃないことが加わります。実は便利じゃないこと、面倒なことをすることは大切なことです。木製品は磨いて、拭いて、大事に使えば、法隆寺のようにずっと保ちます。修理もできます。気を使って木を使うことは人の知恵。それを伝えていきたい。日頃の心構えも丁寧になると思います
木で作ることは?
作る難しさや楽しみを知ってもらいたい。木琴を作るとき、まずいろいろな木をたたいて気 に入った音色を自分で選ばなければなりません。次に手を動かして作ってみて、技術や訓練が必要なことを知ります。木はCOを吸って酸素を出します。燃やしてもカーボンニュートラルですが、木製品として使う限りCOは閉じ込められたままです。「身の回りを木製品であふれさせて地球を守ろう!」みたいな企てに加担していきたいと思います。
引用:『荒野 真司(深川美術) | えこっくる江東 環境学習情報館』

 30分少々の時間だったが、こだわり人の奥深さに魅せられた。時間に急かせながらせかせか生きている自分が何か恥ずかしくなってくる。荒野さんは自然体で、自然の贈りものである木を通して人の心を追いかけておられるのだろう。もっと言えば、人と人との心のやり取りを追いかけておられるのだ。だから、木に対する慈しみの心が全国各地の木の産地へついつい足が向いていくそうだし、廃材になった木を再びよみがえらせることに猛烈に血が騒ぐそうである。

そう言えば、この深川界隈もビルが建ち、ハードチックな街になって来ているが、荒野さんには“ここ深川っ子の心意気はいつまでも永らえていくぞ”の想いがみなぎっている。よし、ここはそのエキスをいただいて、しっかりと腹に収めていこうということだ。この地の名物グルメである深川丼の暖簾をくぐったのである。すると、テーブルにおいてあった江東区マップにこんな言葉が載っていた。
清澄白河の名は、この一帯を開拓した清住弥兵衛と霊厳寺を菩提寺にした松平定信が白河藩の藩主だったから、両者をつなぎ合わせたと。そうか、定信と言えば、財政が逼迫した江戸幕府を立て直すために活躍した人ではないか。その定信の近くで地元を愛し、“縁台美術”や“絵画教室”を啓蒙・促進される荒野さんが何かこの街の救世主にように思えてきたのである。

文 : 坂口 利彦 氏