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こだわり人[2019.11.06]

伝統から未来へ、印刷文化のこだわり技術と心 / 三晃印刷株式会社(新宿区)

止まるところにない技術の進歩。こだわり人の行く手に大いなる未来ありだ。今回のこだわり人は、あのラグビーのワールドカップのチームジャパンを写し取ったようなチームカンパニーを誇る印刷業界のこだわり企業を紹介させてください。

グーテンベルグの活版印刷技術以降の進歩、発展には枚挙にいとまない。この100年を見ても明らかのように戦後の大量生産、大量消費の舞台裏に印刷技術ありだ。モノづくりから生まれた商品もあまねく伝えるには印刷物ですね。今回着目した、昨年春に創業90周年を迎えた三晃印刷株式会社は、まさに時代の流れに着目し、時代の吐く息、吸う息を写し取ってきたこだわりの企業だ。

創業者の山本正宜さんは明治35年(1902)に鹿児島県の奄美大島で生まれ、大阪の鉛版所に務めた後、大正11年(1922)の21才の時に上京。昭和3年(1928)の26才の時に『山元鉛版所』を社員4名で立ち上げ、亡くなられた昭和58年(1983)には400名を越える従業員を抱える印刷会社になられている。その裏には印刷事業に対するこだわりが随所に見られ、印刷文化の拡大、浸透に魂を込められてきたのだから、ここは絶対に見逃せないというものだ。機会があって今から数年前に同社の『八十年の歩み』という著書を読ませていただいたが、印刷事業に対する社員と共に肩を組んでやってきたという想いに魅せられて、印刷会社と席を共にすることが多いわが身の発奮剤としてきたものだ。。

思えば、我がスガツネ工業も2020年には創業90周年を迎えるというから、ある意味では三晃印刷株式会社と同じ時代を、業種は違うが共に駆け抜けてきた企業ではないか。その真摯な想いとダイナミズムは察して余りある。何かご縁のようなものを感じて仕方がない。その三晃印刷株式会社がこのほど創業者の想いを今に、いや未来に繋げていくという観点から、創業者が手掛けられた新宿区の神楽坂近くの水道町に新社屋を竣工されたのだ。案内いただいた2代目の社長、山元悟さんのご子息である創業者と同名の山元正宜さんは「ここは創業者がよく言っていた“会社は家族”というこだわりを集約。全社一体となって印刷の今を目の当りにしながら、これからの進路を予感させるホームミュージアムです」と言われるのだから、その熱いこだわりを伝えさせてください。

こだわり人 ファイル086

伝統から未来へ、印刷文化のこだわり技術と心

三晃印刷株式会社(新宿区)

●「印刷産業は設備産業だ」の想いと、その実践

いつの時代になっても、伝統を重んじることを語る企業の多い時代だ。でも、そこに未来が見えない、片手落ちだと多くの識者が指摘している。すると、山元さんは開口一番、「印刷業界はある面では設備産業です。お客様の多様なニーズに応えるために時代に対応した新しい印刷設備に作業場、それを使いこなしていく人手が欠かせません。それには投資コストもかかるし、熟練した職人さんが不可欠です。そういう意味で私どもの創業者の毎日は印刷設備と作業場と熟練した職人技能がすべてだったんです」と言い、創業からの会社の経緯を話されたので、その大要を最初に紹介させていただこう。

三晃印刷株式会社 取締役 山元正宜 氏

「昭和3年に小石川区(現在の文京区小石川)」で『山元鉛版所』を立ち上げた創業者は、昭和16年(193)に印刷の未来を予感して『三晃社印刷所』の名の元に鉛版製作から印刷事業に進出したのです。だが、戦火は厳しくなってきたので岐阜に疎開した後、昭和20年(1940)に東京に戻り、文京区の柳町で本社兼工場を再開。翌21年(1946)には社名も『三晃印刷株式会社』と改組して戦後日本の新たなスタートとしました。すると出版界に雑誌の創刊、復刊ブームがやってきたのですが、一方で低俗な雑誌や書籍が街に溢れるようになってきました。すると、私共の創業者はそれを由とせず、“事業は金儲けだけのためにあるのではない。社会性、公共性を持っていなければならない。低俗な印刷物は儲かるかもしれないが、卑しくも見識のある事業家の為すべきでない”に徹底的にこだわってきました」

印刷事業に対する創業者の深い見識と熱い志が見えるではないか。それを裏付けるように山元さんは言葉を添えられるのである。

「今の印刷ブームはそう長くは続かない。これからは技術で勝負する時代になると信じあいましたからね」と。

その後、昭和の30年代、40年代、50年代に至る時代に印刷業界の基盤を着実に果たしてこられた業績、役割は枚挙にいとまなしだ。自社の成長、発展はもとより、印刷業界の進展に尽くしてこられた業績には枚挙に限りなしだ。身近に印刷業界に接し、共にしてきたものとして失礼ながら言わせてもらえれば、まさに「近代印刷業を引っ張ってきた“こだわりの闘魂、ここにあり。“と、ついつい思ってしまうのだ。

●印刷文化の限りなき進展を担って

すると山元さんは、一冊のカタログを取り出し、創業から今日に至る歴史を示されたのである。

その流れはまさに作業現場にあたる工場とそこに設置される印刷機器の歴史だ。HPなどでもCorporate historyとして紹介されているが、実際の動きをこの目にしたことのある印刷機の名称が次々に出てきて、改めて印刷設備が重要な役割を果たしてきたことを教えられる。

ちょっと取り上げれば、昭和20年、柳町工場のB全印刷機から始まって翌年の鋳造機、昭和23年の回転印刷機、活字鋳造機、書籍輪転印刷機へと続き、昭和28年(1953)に新宿区の印刷の街と言われる水道町に活版印刷工場を設立し高速輪転印刷を開始。その後、水道町に石切橋工場を新設、増築し、柳町工場の全業務を石切橋工場に移転し、書籍輪転印刷機、雑誌輪転印刷機、ハイデルべルグ印刷機などを設置し、膨れ上がる多様なグラビア印刷などにも積極的に対応。そして昭和42年(1967)には千葉県習志野に現在の主力工場であるオフセット印刷工場を設け、オフセット時代の多様な印刷業務に応える陣形を整えられたのである。

それによって活版印刷からグラビア印刷、オフセット印刷という時代の流れに沿った事業力は一段と高まり、石切橋工場は本社兼工場になり、習志野工場と並んで印刷業務の2大生産体制を確立されたのだが、多様な印刷用紙などに対応した印刷設備の強化、増設に明け暮れられたことは想像して余りある。その間には自社だけのことではなく、印刷業界のために東奔西走されたのだから『八十年の歩み』に書かれた創業者の足跡を読めば、感動ものだ。

そして昭和54年(1974)に二代目の山元悟さんにバトンタッチされ、昭和58年(1983)に亡くなられたのだが、まさに戦後日本の印刷事業の基盤を作り、印刷文化の行く手を担ってこられた第一人者だ。印刷用語で言えば想いをしたためた原稿を見事に製版し、印刷し、製本された人生ということだろう。そのこだわりが山元パラダイムとして今に受け継がれ、印刷力や社内環境力の強化、充実に受け継がれてきているのだが、ボクが魅せられ、非常に関心を抱かされたのは、ある面では印刷革命とも言われた昭和60年代から始まった“活版から電算写植へ”という時代への対応である。従来の印刷プロセスが新しい印刷技術の登場によって劇的に変わってきた流れをいち早く察知し、その変革に終始されたことだ。

山元正宜さんは当時の模様を想い浮かべながら、亡き創業者の想いを次のように言われるのである。

「時代の流れに乗り遅れるな。仕事の流れを変え、それに対応した組織に変えていかねばならなくなってきたし、お客様の印刷納期、コスト意識も変わってきて“早くて、美しくて、安い時代”だ。そのためには、私ども印刷に携わる一人一人がマインドスイッチしなければならない。従来の伝統的な印刷技術を維持しながら未来へ向かった新しいビジョンを描き、実践していこう“と社員の一体感を説き続けましたね。おかげさまで、その結果が社員一人に浸透し、この新社屋の精神的支柱になっているんです」

●時代の行く手に終わりなし、変わらぬ創業者精神

まさに、立ち止まっていてはダメだ。先人たちの伝統に想いを馳せながら歯車を止めることなく、さらなる未来を社員がスクラム組んで押し出していこうということではないか。その兆しを身近に感じたので、現在のこだわりのある事業の体系とその概要をお聞きした。

「現在は本社に隣接する工場と習志野工場の二本立て、カタログ、パンフレット、ポスターなどの商業印刷部門、週刊誌や月刊誌・書籍などの出版社関連、加えて官公庁部門を主要な得意先としていますが、創業者の印刷設備への想いはまったく変りません。そこにあるのはこれまでの経験と実績を基盤に、次代の進路を鮮明に描きながらワンストップソリューションサービスという観点から一つの印刷工場内で製販・印刷・製本を一貫して行うことにこだわって事業を展開しています。

特に、印刷事業は、“活版から電算写植へ”と変わってから必然的に事業体系も変えてきましたので、現在は印刷に入る前の段階であるデータなどを作るDTP部門、実際に印刷物を作る印刷部門、印刷後の加工をする製本部門、さらにアナログからデジタルへの時代に対応したデジタルコンテンツ部門を明確にし、多様なお客様の要望に責任を持って応えするワンスポットソリューションサービスに徹底しています。そこにあるのは品質の管理、スムーズな進行の管理を基軸に、顧客窓口から製品の作成、納品に至るすべてを完璧にカバーするということです。

DTP部門はデザイン支援から文字組版、画像組版。画像色調補正、スキャナ、CTP出力といった業務、印刷部門はいろんなサイズや特徴に合わせた印刷物に対応したオフセット輪転機や平台印刷機を稼働する業務。製本部門は印刷されたカタログや本の紙を追ったり組み立てたり、カバーを取り付けたり業務、さらにデジタルコンテンツ部門はモノクロ漫画に色付けするカラーリング,WEB配信の電子書籍、携帯用コンテンツの制作業務に特化しています」

その根底にあるのはまさに従来から綿々と続く印刷業に軸足を置きながら、インターネット時代、アナログからデジタルという時代の潮流を先取っているということだろう。改めて、印刷業界の新たな変わりようを三晃印刷に見ることができる。廊下などですれ違う社員の方に何か躍動感を感じる。現在の“働き方改革”なんて、すでに私たちは享受していますという感じだ。

●スクラムパワーで、印刷文化の未来に陰りなし

平成10年頃からはやはり日常化したDTPとかCTPといった設備も整備され、“さあ、印刷のことならなんでも来い!”という事業ダイナニズムに拍車を駆けておられる。すると最後に、「これも創業者の印刷事業に携わる社員への想い。印刷文化の未来へのこだわりです」と言って、新社屋の見どころ2点を案内いただいたので紹介しておこう。

「一つは新社屋の中央に設けたパブリックスペースです。社内に当社の印刷事業の歴史とこれからの印刷文化に想いを巡らせる印刷博物館ともいうべき社内空間を設けています。歴史を彩ってきた書籍を、お茶を飲みながら歓談できるカフェ、さらにひとり静かにリラックスできるパーソナルスポットを設けましたが、既に社員の研鑽処、憩い処、交流処になっています。

もう一つは新社屋の4階は当社の本社機能と先ほど言ったDTP部門などを設けていますが、1階から3階までには大手のスーパーマーケット『マルエツ』などを誘致したことです。買い物客の日常的な生活を身近に見ることによって印刷事業の根底にあるコミュニケ―ション意識をみんなで高めていこうということですよ」

歴史を彩ってきた書籍の数々

納得だ。壁を作らず、社員の心を一つになってというマインドレボリューション。また、一般の消費者の日常を積極的に見ていこうというパブリックリレーション。印刷マンとしての誇りと市民と共に生きているという創業者の志が綿々と息づいている。ある面では三晃印刷の社是である「従業員の物心両面に亘る幸せを追求し、併せて、世のため人のためとなる企業でありたい」の現われということだろう。いま、印刷業界は出版業界と並んで厳しい時代と言われているがこれからも創業者の生きた時代を共有しながらスクラム組んで“One for All, All for One”のワンチーム精神で未来トライをあげていってもらいたいものだ。

帰りに1階の『マルエツ』に立ち寄って奄美大島のこだわりの黒糖焼酎「朝日」を買って帰り、創業者の想いを口に含むと、身体はほんわか、何か朝日が昇るように温かい気分がどんどん広がっていくのである。

文 : 坂口 利彦 氏